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容体急変  20007年1月2日(火)

年末の頃は食欲もほとんど無く、大晦日にはすいとんにほんの少しだけ口をつけると言った程度でした。そして元旦には、おせち料理を食べられる元気もなく、せめて何か胃に入れようと、葛湯を飲んでいました。

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自宅療養中に渡された様々な薬の量がかなり多いので、母はその服用する量を自分勝手に減らしていました。治る病気なら、嫌がってでも無理矢理服用させますが、もう最期が見えそうな状態では、そんなことをする必要もありません。激しい痛みはモルヒネの服用でかなり抑えられていて、また病状も予想通り進行していて、母の体力をかなり奪っていました。

1月2日(火)の朝10時過ぎに起きて、母の部屋に行くと、妹が心配そうに「 声が出ないし、起きあがれない・・・」と言いました。もちろん薬も服用など出来ません。

母に向かって「 声は聞こえる?」というと、母はうなずきました。「 痛い?」と聞くと「 痛みは無い」と言いたげに首をわずかに横にふりましたが、目がうつろで、今にも意識を失いそうでした。予想していた様に、容体が急変してしまいました。しかし、意識はしっかりしているし、呼吸も激しくは乱れていません。むしろかなり弱々しい状態です。

この日には昼に、母の妹にあたる叔母さんがもうすぐ来ることになっていました。母の容体はかなり悪い様子でしたが、医師でもない私たちには何もできません。そうこうしているうちに、叔母さんがやってきました。叔母さんは母の容体を見るなり、動揺し始めました。つい数日前にはまだ話すこともでき、なんとかイスに座ることができたからです。

それから直ぐに病院のERに電話をしました。現在の状態を説明すると、直ぐに来いとのこと。起きあがれず、声も出ず、呼吸も弱々しいので、救急車を呼びました。119に電話すると、火事か救急の別を聞かれ、救急の旨を告げ、母の容体を説明しました。5分くらいで救急車が到着しました。救急救命士が様々な医療機器を持って、母の枕元に来て、簡単な状態確認をし始めました。そしてストレッチャーに母を乗せ、救急車の中に収容しました。私も生まれて始めて救急車に同乗しました。病院と連絡をとりながら、駐車したまま救急車の中で更にいろいろな医療機器で母の容体をチェックしていました。それから5分くらいして救急車は病院に向けて走り始めました。病院までは、普通でも15分くらいです。赤信号でも優先で走れるので、10分程度で府中病院のERに到着しました。

1月2日はまだお正月の最中ですが、ERの受付には沢山の患者で溢れていました。少し待たされて母は診察室に運ばれました。小一時間経った頃、医師に呼ばれました。

そこにはいつも母を診てくれている担当医がいました。

レントゲン画像を見ながら説明が始まりました。「 ・・・この状態では抗ガン剤治療は中止ですね・・・もう肺がほとんど機能していないようです。これからはあえて薬で意識レベルを下げます。そうすれば痛みもないでしょう・・・悪くすれば今夜・・・この2~3日が峠でしょう・・・会わせてあげたい方がいれば・・・面会時間が過ぎても多少は大丈夫でしょう・・・」と告げられました。母の死がもうすぐそこに迫っていました。

直ぐにERから個室の病室に移され、TVで見るような、心拍数や呼吸を示す機器がベッドの脇に置かれました。酸素マスクを装着され、点滴装置により、多くのモルヒネやステロイド剤が投与されました。母は昏睡状態で静かにベッドに眠っています。

病院の入り口の外に出て、母の兄妹に直ぐ連絡しました。横を見ると、付き添ってきた叔母さんも家に電話していました。

「 もう家には帰れないって、ことよね・・・」と叔母さんは涙声になっていました。「 ・・・そうでしょう・・」と私は言いました。

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