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見せかけの回復  2007年1月2日~11日

母の容体が急変して再入院して直ぐに親戚や知人に知らせました。それから親戚が全員集まりました。ベッドで寝ている母の様子は、穏やかに眠っています。酸素マスクと点滴チューブや検査機器に繋がれていましたが・・。

病室にいても全く何もすることなどありません。寝ている母の様子をじっと黙って見つめているだけです。病棟の端にある休憩所に座りながら、親戚の叔父さんや叔母さんに、先ほど医師から説明された母の病状について話をしました。母の死が確実に近いことを。

昼過ぎに病院に来て、点滴により栄養剤を投与したせいかわかりませんが、その日の夕方には、驚くほど、母親の容体は回復しました。意識ははっきりして、かすれた声ですが話せるほどになりました。もちろん手足も動きます。

しかし、これは見せかけの回復でした。母の容体は末期ガンの更に末期です。死にゆく母に誰も何も出来ません。それがとても悲しいです。

医師が夜になって診察に来ました。今夜はとりあえず落ち着いているので大丈夫そうでした。休憩所で親戚の叔父さんや叔母さんと、母の葬儀について少し話をしました。

母が死亡したら、まず病院から自宅に母の遺体を搬送しなければなりません。そして通夜を行う葬儀場に運ぶまで、自宅での弔問客の応対の為に、母の部屋を片づけなければなりません。座布団、茶碗、急須、茶菓子、・・・・しなければならないことは山ほどあります。大勢の弔問客の為に、駐車場も臨時に確保しなければなりません。父親が死んだのは30年も以前のことなので、葬儀の詳細については忘れています。当時はまだ高校1年生だったので、葬儀に「参加」した感じでした。しかし、今回は喪主になり葬儀を主催する立場です。

夜、家に戻り、直ぐに母の部屋を片づけました。ソファーや家具を移動して、大勢が来ても大丈夫な空間を作りました。それまで雑然と様々な生活道具があったものを片づけて、引っ越しして始めて部屋を見たような何もない空間に、とてつもない寂しさを感じました。だけど、悲しんで呆然としている場合じゃありません。これからが家族としての仕事が始まるわけです。

それからの母の容体は一進一退でした。調子のいい日もあれば、一日中寝ている日もありました。でも意識ははっきりしていて、かすれた声でしたが話はちゃんと出来ました。

数日して、昨年の10月、病院へ向かう車の中で渡された、調布市にある葬儀社のパンフレットに電話をして、近々行うであろう母の葬儀の打ち合わせに行きました。その帰りに、葬儀場になるお寺にも事前の打ち合わせに行きました。( この詳細についいては、葬儀編でより詳しく記述します )

1月5日までには、母が死亡しても大丈夫なように、葬儀の準備が整いました。

毎日毎日、母の兄妹や知人が誰かしらお見舞いに来ていました。こうして、皆が母の死への、心の準備や葬儀の準備に気持ちを強くしていきました。

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