母の臨終  2007年1月17日(水)午前5時47分

1月17日(水)の天気予報は、寒気団の影響で、東京でも雪になりそうな予報でした。1月2日からは、寝ているときでも緊急連絡がすぐ受けられるように、枕元には自宅の電話器と携帯電話を置いていました。

1月17日(水)午前3時30分頃に、母に付き添っている妹から「もうダメみたい・・・」と携帯電話に連絡が入りました。深夜にバタバタと動き始めた様子に、隣の部屋に寝ていた弟もそれと気づき、急いで服を着替えました。この夜はまだ雨も雪も降っていませんでした。静かに寝静まった住宅街の道路を弟と2人で、家から離れた駐車場まで走っていました。すぐに車を走らせて、わずか10分足らずで病院の駐車場に着き、病棟まで走って行きました。

エレベーターの中で呼吸を整えて母の病室に入ると、母は、まるで全速力で走ってきたマラソン選手のように、ハァー・・ハァー・・と、ベッドの上で肩で息を切っていました。顔の表情は穏やかですが、最期の最期に、何とか生きようと激しく胸が動いていました。酸素マスクを通して、母の激しい呼吸音だけが狭い病室に聞こえていました。

妹から「 3時半ごろから急激に器械の数値が下がってきたって・・。もう最期らしい・・」と言われました。直ぐに、親類や知人に危篤を知らせました。1時間のうちに、皆駆けつけてきました。

大勢の人が病室の壁際に立ち、母の様子をただじっと見つめていました。私たちもそうでした。ベッドの脇で、大きく波打つ母の胸と呼吸音をじっと見つめていました。途中、看護士の女性から「 耳は聞こえますので、何か話してあげてください 」と言われました。しかし、直ぐに危篤で苦しんでいる母に語りかける言葉は出てきません。「 みんないるから大丈夫だよ・・」と、話しかけるのが精一杯でした。母の兄妹は、母の腕や足をさすっていました。

午前5時30分頃には、呼吸がかなり静かになってきました。もう肩で息を切っているようではなく、だんだんと呼吸が止まりそうでした。心臓だけが、最期まで頑張っているように思えました。

呼吸が止まりました。母の身体はもう二度と動かなくなりました。

母の手をずっと握っていた妹が泣き始めました。私の横に立っていた弟の手を取り、その手を母と妹の手に添えて、私たちも涙を流しました。直ぐに医師がやってきて 「 ・・・全てのモニターの数値が下がり、測定出来なくなりました・・・死亡を確認させていただいてよろしいでしょうか?・・」といい、私は涙顔で頷きました。

「 脈拍、呼吸、瞳孔反射がありません。午前5時47分。死亡を確認させていただきました」と告げられました。

続いて看護士が来て酸素マスクや点滴を外しました。「 6時頃までは、このままにしておきますので、みなさんでお別れをして下さい 」と言われました。母の兄妹もみな涙を流しながら母の手を握ったり、頬を触りながら「 よく頑張ったね・・」と声をかけていました。

午前6時になり医師に呼ばれ、母の死亡について説明がありました。そして、医師から、死亡診断書を渡されました。

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それから母の遺体は直ぐにストレッチャーに乗せられて、霊安室のある地下の部屋に移されました。白い、線香も花もない空間の部屋の端に母の遺体を置き、私たちと親戚、医師、看護士が順番に手を合わせました。叔父さんが、母が亡くなって直ぐに葬儀社に連絡して自宅までの搬送車を手配してくれていました。

もう既に搬送車は到着していて、直ぐに母の遺体をストレッチャーごと車の寝台に乗せました。

午前8時前に、冷たい雨が降り出す中、病院を出発して母の遺体とともに家路につきました。

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瀕死の母への退院勧告  2007年1月12日(金)

1月2日に容体が急変しましたが、12日まではなんとか小康状態を保っていました。

そして、この12日の夜に、担当医から退院についての話しがありました。この日に妹と病院に行く車中で、「 おそらく退院してくれ、っていう話だよ。今は病院では、末期のガン患者は死ぬまでちゃんと診てくれないから・・・。ホスピスか在宅の終末ケアの話だよ・・」というような話をしていました。

そして夜になり、担当医から家族の者が呼ばれて、話が始まりました。

それは妹が言っていた通り、退院勧告の話でした。母の今の状態は、2日に緊急入院した時よりも、少しは状態がいい事。そして、もうこれからは、抗ガン剤などで病気を治す(進行を止める)のではなく、痛みなどの緩和だけで、自然に死ぬまでケアするということでした。

しかし、末期ガン患者の終末ケアは、この府中病院ではやらないので、ホスピス病棟のある他の病院に行ってほしいとのことでした。だけれど、ホスピス病棟のある病院は、どこも満杯で2~3ヶ月待ちの状態で、入院予約しても、多くが「 死亡によるキャンセル 」が現状とも説明されました。そして、在宅での末期ガンの母の終末ケアについて話がありました。

ホスピスに予約しても順番待ちをしているうちに死亡してしまうのならば、選択の余地はありません。瀕死の母を家に連れて帰り、最後を看取るだけです。現在の病院の殆どが、末期ガン患者の終末ケアは行っていません。治癒できない、直ぐに死にそうな患者は病院から退院しなければなりません。病院は病気を治す所であって、治らない患者の居場所ではないようです。

担当医の、現在の末期ガン患者に対する医療の苦しい現状の説明を静かに聞いていました。私が、自宅で母の終末ケアをします、と言うと、担当医は安堵していたようでした。

しかし、母の病気は、ホスピスへの入院や自宅での終末ケアなんて時間は与えてくれませんでした。

14日(日)から容体がかなり悪くなり、モルヒネの量も増え、ずっと昏睡状態になりました。この日の夜に、現在群馬県の病院で医師をしている従兄弟が叔父さんと共に見舞いに来ました。そして、もう数日のうちに死亡する可能性がかなり高いと告げられました。

15日(月)の夕方に担当医が母の容体を診に来たとき、「 こないだは小康状態だったのですが・・・例の話(ホスピスや在宅の終末ケア)は、ちょっとやめてしばらく様子をみましょう・・・」と、申し訳なさそうな表情で話しました。この夜にも、看護婦をしている従姉妹が見舞いに来て、「尿が出なくなってきているから、もう1日ぐらいかも・・・」と話してくれました。

16日(火)にはもう酸素の供給量は最大になり、またモルヒネの量も今まで以上の量になりました。尿を貯めるビニールパックは赤茶色をしたままで、増えてはいませんでした。

昏睡状態で穏やかに眠っている母の死が数時間後に迫っていました。

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見せかけの回復  2007年1月2日~11日

母の容体が急変して再入院して直ぐに親戚や知人に知らせました。それから親戚が全員集まりました。ベッドで寝ている母の様子は、穏やかに眠っています。酸素マスクと点滴チューブや検査機器に繋がれていましたが・・。

病室にいても全く何もすることなどありません。寝ている母の様子をじっと黙って見つめているだけです。病棟の端にある休憩所に座りながら、親戚の叔父さんや叔母さんに、先ほど医師から説明された母の病状について話をしました。母の死が確実に近いことを。

昼過ぎに病院に来て、点滴により栄養剤を投与したせいかわかりませんが、その日の夕方には、驚くほど、母親の容体は回復しました。意識ははっきりして、かすれた声ですが話せるほどになりました。もちろん手足も動きます。

しかし、これは見せかけの回復でした。母の容体は末期ガンの更に末期です。死にゆく母に誰も何も出来ません。それがとても悲しいです。

医師が夜になって診察に来ました。今夜はとりあえず落ち着いているので大丈夫そうでした。休憩所で親戚の叔父さんや叔母さんと、母の葬儀について少し話をしました。

母が死亡したら、まず病院から自宅に母の遺体を搬送しなければなりません。そして通夜を行う葬儀場に運ぶまで、自宅での弔問客の応対の為に、母の部屋を片づけなければなりません。座布団、茶碗、急須、茶菓子、・・・・しなければならないことは山ほどあります。大勢の弔問客の為に、駐車場も臨時に確保しなければなりません。父親が死んだのは30年も以前のことなので、葬儀の詳細については忘れています。当時はまだ高校1年生だったので、葬儀に「参加」した感じでした。しかし、今回は喪主になり葬儀を主催する立場です。

夜、家に戻り、直ぐに母の部屋を片づけました。ソファーや家具を移動して、大勢が来ても大丈夫な空間を作りました。それまで雑然と様々な生活道具があったものを片づけて、引っ越しして始めて部屋を見たような何もない空間に、とてつもない寂しさを感じました。だけど、悲しんで呆然としている場合じゃありません。これからが家族としての仕事が始まるわけです。

それからの母の容体は一進一退でした。調子のいい日もあれば、一日中寝ている日もありました。でも意識ははっきりしていて、かすれた声でしたが話はちゃんと出来ました。

数日して、昨年の10月、病院へ向かう車の中で渡された、調布市にある葬儀社のパンフレットに電話をして、近々行うであろう母の葬儀の打ち合わせに行きました。その帰りに、葬儀場になるお寺にも事前の打ち合わせに行きました。( この詳細についいては、葬儀編でより詳しく記述します )

1月5日までには、母が死亡しても大丈夫なように、葬儀の準備が整いました。

毎日毎日、母の兄妹や知人が誰かしらお見舞いに来ていました。こうして、皆が母の死への、心の準備や葬儀の準備に気持ちを強くしていきました。

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容体急変  20007年1月2日(火)

年末の頃は食欲もほとんど無く、大晦日にはすいとんにほんの少しだけ口をつけると言った程度でした。そして元旦には、おせち料理を食べられる元気もなく、せめて何か胃に入れようと、葛湯を飲んでいました。

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自宅療養中に渡された様々な薬の量がかなり多いので、母はその服用する量を自分勝手に減らしていました。治る病気なら、嫌がってでも無理矢理服用させますが、もう最期が見えそうな状態では、そんなことをする必要もありません。激しい痛みはモルヒネの服用でかなり抑えられていて、また病状も予想通り進行していて、母の体力をかなり奪っていました。

1月2日(火)の朝10時過ぎに起きて、母の部屋に行くと、妹が心配そうに「 声が出ないし、起きあがれない・・・」と言いました。もちろん薬も服用など出来ません。

母に向かって「 声は聞こえる?」というと、母はうなずきました。「 痛い?」と聞くと「 痛みは無い」と言いたげに首をわずかに横にふりましたが、目がうつろで、今にも意識を失いそうでした。予想していた様に、容体が急変してしまいました。しかし、意識はしっかりしているし、呼吸も激しくは乱れていません。むしろかなり弱々しい状態です。

この日には昼に、母の妹にあたる叔母さんがもうすぐ来ることになっていました。母の容体はかなり悪い様子でしたが、医師でもない私たちには何もできません。そうこうしているうちに、叔母さんがやってきました。叔母さんは母の容体を見るなり、動揺し始めました。つい数日前にはまだ話すこともでき、なんとかイスに座ることができたからです。

それから直ぐに病院のERに電話をしました。現在の状態を説明すると、直ぐに来いとのこと。起きあがれず、声も出ず、呼吸も弱々しいので、救急車を呼びました。119に電話すると、火事か救急の別を聞かれ、救急の旨を告げ、母の容体を説明しました。5分くらいで救急車が到着しました。救急救命士が様々な医療機器を持って、母の枕元に来て、簡単な状態確認をし始めました。そしてストレッチャーに母を乗せ、救急車の中に収容しました。私も生まれて始めて救急車に同乗しました。病院と連絡をとりながら、駐車したまま救急車の中で更にいろいろな医療機器で母の容体をチェックしていました。それから5分くらいして救急車は病院に向けて走り始めました。病院までは、普通でも15分くらいです。赤信号でも優先で走れるので、10分程度で府中病院のERに到着しました。

1月2日はまだお正月の最中ですが、ERの受付には沢山の患者で溢れていました。少し待たされて母は診察室に運ばれました。小一時間経った頃、医師に呼ばれました。

そこにはいつも母を診てくれている担当医がいました。

レントゲン画像を見ながら説明が始まりました。「 ・・・この状態では抗ガン剤治療は中止ですね・・・もう肺がほとんど機能していないようです。これからはあえて薬で意識レベルを下げます。そうすれば痛みもないでしょう・・・悪くすれば今夜・・・この2~3日が峠でしょう・・・会わせてあげたい方がいれば・・・面会時間が過ぎても多少は大丈夫でしょう・・・」と告げられました。母の死がもうすぐそこに迫っていました。

直ぐにERから個室の病室に移され、TVで見るような、心拍数や呼吸を示す機器がベッドの脇に置かれました。酸素マスクを装着され、点滴装置により、多くのモルヒネやステロイド剤が投与されました。母は昏睡状態で静かにベッドに眠っています。

病院の入り口の外に出て、母の兄妹に直ぐ連絡しました。横を見ると、付き添ってきた叔母さんも家に電話していました。

「 もう家には帰れないって、ことよね・・・」と叔母さんは涙声になっていました。「 ・・・そうでしょう・・」と私は言いました。

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自宅療養の日々  2006年11月~12月31日

自宅に帰ってきてからの母は、毎週火曜日に病院での抗ガン剤治療に通院して、それ以外は家で寝ていました。

寝てるといっても、一日中睡眠しているわけではなく、食事や友人・知人がお見舞いに来たときには起きあがり、楽しそうに話をしていました。

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しかし、食事は「すいとん」以外はほとんど食べられませんでした。また抗ガン剤はいろいろな副作用を必ず引き起こすので、吐き気・眠気は頻繁でした。もう12月に入った頃には、ほとんど歩けないほど体力は落ちていました。かろうじて、家のトイレには自力で行っていました。

食事は味覚障害の為、楽しむというわけにいかず、もっぱら薬を飲むために食べているような感じでした。

また、顔が抗ガン剤のせいか、服用している薬のせいなのかわかりませんが、頬がふっくらしてきて、見た目は健康そのものに見えました。母自身も驚いていました。母は肥満ではなかったですが、肥満体の方の顔つきのように、顔だけはふっくらしていました。

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母は自分で自分の症状を記録していました。何のための記録だったのかはわかりませんが、今となっては貴重な記録になりました。

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自分の症状以外にも、誰々からお見舞いを戴いた、など、いろいろ書いてありました。

夜の9時頃には母は寝ていました。その寝顔を見ていると、末期ガンで余命がほとんどないとは想像もつかないくらい穏やかな表情をしていました。寝息をたてていたこともありました。

しかし、必ず近いうちに、この寝顔が寝息をたてない、冷たい身体になることに覚悟をあらたにしていました。

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退院の日の頃  2006年11月2日(木)

予定では11月の半ば頃の退院予定が、11月2日(木)になりました。1日でも多く、家に帰りたかった母の要望だったのでしょう。

11月2日(木)午前中に母の部屋に行き、身の回りの荷物をまとめて、昼前には家に帰ってきました。まだこの頃はゆっくりながらちゃんと歩いていました。しかし、入院したころに比べて体力がかなり落ちた様子は否めません。1ヶ月近くも入院していればそうなってしまうのでしょう。ましてや、食事も殆ど食べられなかったようですので。それでも、モルヒネで痛みを止めている為に、母の様子はとても明るかったです。不自由な病室より、やはり、自分の家のほうがいいでしょう。

この日の夕食はとても豪華な食材がテーブルにありました。おそらく初めてじゃないか?と思うような高級マグロのトロの刺身、松阪牛のしゃぶしゃぶ用の牛肉でした。夕食の準備が出来て、母は高級マグロのトロを口に入れました。「 ・・・苦い・・・美味しくないねぇ・・・」。松阪牛のしゃぶしゃぶを今度は口に入れましたが、同じように、一口だけ口を付けただけ箸が止まりました。

抗ガン剤のせいか、他の服用している薬のせいか? 母は味覚障害を起こしていました。病院食では美味しい物はないので、さぞ楽しみにしていたことでしょう。しかし、食事の楽しみもこのときには既に無くなっていました。母は「 すいとん 作ってくれない? 」と願い、安価な食事に変更になりました。

これ以後、母の主食は「すいとん」になりました。高価なマグロのトロや松阪牛は苦みで食べれなかったのに、この小麦粉を練ったものだけは抵抗無く食べていました。そのほか、母が食べられたものは「 手作りの赤飯 」でした。これまた不思議なことに、普通の白米が食べられないとのことだったからです。

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悲しい嘘の始まり  2006年10月29日(日)

2006年10月26日(木)の夕方に、母親の余命が3ヶ月あるかどうか、という非常に切迫した状態にあることがわかりました。

胆管に巣くった癌は5cm以上にもなり、身体の表面が腫れてきている・・・また、リンパ節だけじゃなく、既に骨髄によって全身に癌が広がっている・・・。

抗ガン剤治療は効果が出るまで2~3ヶ月かかるとのこと。それまでに母は死んでしまうかもしれない・・・

私は医師の真摯な説明から、おそらくは年内には死亡の可能性がかなり高いことを予感しました。余命3ヶ月なんてもんじゃなく、あと1ヶ月ないかもしれない。今元気に見えるのはモルヒネによって痛みを止めているからで、そうでなければ、もう起きあがれない状態なのかもしれない・・・

母は3ヶ月以内に確実に死ぬ。病状は末期の癌。非情な現実だけれども、もう誰にも、どうすることも出来ない。

生きていられる残り少ない時間に果たして何をすべきなのか? 私自身が母の立場なら、どうしたいか? 答えはすぐに出ました。

この事実を正確に、母の兄妹や友人に伝えて、最期の残された時間を有意義に過ごすこと。それしかないと考えました。

余命宣告を受けて病院から家に帰り、直ぐに、親しい母の弟である叔父さんに電話しました。叔父さんもとても驚いていました。そして2006年10月29日の日曜日に、叔父の家に親戚一同が集まるから説明をして欲しいと頼まれました。日曜日の午後、親戚一同が集まった席で、私は母親があと3ヶ月の余命であることの説明をしました。何度も前述してますが、母の兄や姉はこの3年内に癌で死んでいます。その残された叔父さんや叔母さん達も来て話を聞いていました。

実際に出来ることは、死が迫っている母に対して出来ることはお見舞いに来て話をすることぐらいです。しかし、みんながいっせいに押し寄せたら、病気の状態がかなり悪いことが母にバレてしまいます。末期ガン患者の様子は母親自身が一番良く知っています。なぜなら、肺ガンで死んだ母の兄を頻繁に見舞っていたのは母自身でしたから。

翌日から毎日毎日、母の兄妹がそれぞれ見舞いに来るようになりました。この頃、母から「 最近、毎日みんなお見舞いにくるんだけど・・・」と言われたのを覚えています。私は予め用意しておいた嘘の理由を母に説明しました。「 あ~・・それは、叔母さん(母の妹)が異常に騒いでいるみたいだからだよ。叔母さんはいっつもそうじゃん。小さな事でも大騒ぎしてるじゃん」と言いました。母は「 はぁ・・・やっぱそうなのね。大した入院じゃないんだから・・・もうすぐ退院するのにねぇ・・・」と、すっかり騙されていたようでした。

大騒ぎの張本人にされた叔母さんは、「 あたしが大騒ぎしたってことにしといていいわよ。そうしておいてね。それで姉さんが最期まで騙されてくれるなら・・・」

母が入院して留守がちな家の留守電に、母の友人からのメッセージが入っていました。そして、この頃、ちょうど家にいた私が電話を受けた母の友人に、母が余命3ヶ月もない末期の癌で入院していることを話しました。「 こないだまであんなに元気だったのに・・・じゃあ早速お見舞いに行かせていただきますね。勿論、本人にはこの余命の話は絶対内緒にしてね・・」

母の周りの人々が、母に対してとても気をつかって戴いて、最期の時間を穏やかに過ごす準備が整いました。

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余命宣告 後編 2006年10月26日(木)

*** 前編からの続きです。 ***

担当医 「 ・・・まぁ・・そこまで・・まぁ・・そのね・・お母さんのご兄妹でね・・不幸が続たってことでね・・・本人にも、うすうす、わかったってことでね・・お家の方も、予め知識としてね・・わかった・・まぁ癌のことをお持ちなようなのでね・・まぁ・・我々のまぁ・・申し上げたことを・・大体ね・・おわかりいただけたんじゃないかと思うんですけども・・今日わざわざ・・今日、本人に言わないでね、来てくださいって言ったら・・そういうね・・ちょっと・・本人の耳にいきなり入れるのはね・・ちょっとまぁ・・本人もけっしてね・・治ると・・・絶対治るとね・・そこまで・・その思ってるか・・・多分、事情はね・・わかってると思うんです・・もう、そういう・・あの・・完全に癌を治癒させるのができないんじゃないかっていうのはね・・・でもまぁやっぱりね・・少しでもね・・あの・・こちらはあえて・・まぁ・・どんな元気な方でもね・・具体的にね・・本人の前で・・あなたは3ヶ月ですとかね・・・あの・・一年ですとか・・・極力そういうのは申し上げないことにしてます・・それは、まぁ・・それがね・・あの・・患者さんにとってね・・ご家族とかはある程度ね・・そういう情報は入れとかないといろいろね・・あるので、入れとくことが多いのだけれど・・本人はやっぱり・・(余命宣告を)入れとくことで、それがプラスに働くか、マイナスに働くか、人によって違うんだけども・・基本的にはやっぱり、その・・・あまりよくないことが多いんですよね・・・」

私 「 はい 」

担当医 「 ・・社会的に凄く重要な立場でね・・もう・・身辺整理を全部やっておかなきゃいけないていう人だったらね・・言うこともあるけども・・・通常は・・あえてその・・何ヶ月・・・そういうのは・・具体的には・・・私は・・まぁ・・言わない事にしててね・・そのかわり、まぁ・・その・・・ちょっとぼやかして・・・少しでもね・・治療の方にね・・前向きになって・・もらうように・・まぁ・・してるんですけども・・。お家の方には真実をね、伝えておかないといけないと思いまして・・・今日お越しいただいたんです・・・。」

私 「 はい。わかりました 」

担当医 「 で、本来ならね・・お家の人を呼んでから・・その・・モルヒネ使います、ってお話をするべきところだったんですけど・・あまりにも痛みが強いので・・・本人にだけは簡単なお話をして使わさせて頂きました。」

私 「 はい 」

担当医 「 ・・で、先ほど言ったように、便秘、とか、あと・・眠りがちになる・・もっともっと多い量を使うと、呼吸が弱くなるとか・・そういうのありますけど・・通常の・・あの・・今使ってる量だと・・特にそういうことは問題無いかと・・思ってます。」

私 「 はい 」

担当医 「 で、今後・・まぁね・・癌を小さくしていくっていう目標はあるけども・・主に・・やっぱその・・痛みを・・結構・・やっぱりね・・あの・・ご高齢でいらして・・特に・・あの・・もう・・若い子らと違って・・(痛みを訴えることを)もう・・言うことが遠慮して・・恥ずかしいって思うふしがあるみたいでね・・こちらが・・察知してあげないと・・なかなかそのね・・痛みのことを言ってくださらないことがあるのね・・」

私 「 あぁ・・そうなんですか・・」

担当医 「 ・・・あの・・痛み止めを・・まぁ・・極力使ってね・・・あの・・・どうしても苦痛・・緩和ね・・癌をよくするっていうより、むしろ緩和・・症状を緩和するっていうことをね・・ことをね・・あの・・今、一番に・・考えてあげるべきではないのかな・・と思って・・まぁ・・治療しています。・・・で、まぁ・・外来のね・・抗ガン剤の治療が出来る間は・・その・・続ける。抗ガン剤の治療が出来なくなるような状況になったら、また・・あの・・・お話をしてね・・あとは抗ガン剤の治療が出来ないレベルでね・・その・・・お家の方とかと・・密にね・・その・・入院をしたりね、してね・・あの・・ず~っと濃密な時間を過ごす場合・・その・・なかなか・・府中病院だとね・・あの・・いろんな制約があってね・・まぁ・・難しいんだけどね・・例えばその・・ホスピスとかね・・そういうところに・・その・・ご紹介するっていうことがね・・あるかもしれない。それはまだ随分先のことだけど・・」

私 「 はい 」

担当医 「 あの・・・ですから・・まぁ・・今そういうこと、癌の治療してる間はホスピスとかっていうのは全く縁がない。癌の治療をしないで・・もう・・要は、自然の経過に任せましょう。痛みだけを取りましょう、っていう状態になったときに、そういうホスピスとかね・・そういうところの・・まぁ・・あの・・・ホスピス病棟を持っている・・・まぁ・・・桜会(社会福祉法人 聖ヨハネ会桜町病院)とかね、近くだったらそういう病院があるんです・・清瀬市の方にもありますけども・・そういう病院であったりね・・・そういうところを、ちょっと・・お家の方と相談して・・見学に行ってもらったりとか・・今後そういうことを・・・まぁ・・癌がある程度進行がゆっくりであればね・・ちょっと考えさせて頂く時期が来るかもしれない。・・ただもう・・あっという間に癌が進行してしまう場合はね・・そういうことのお話を進めてるうちに、もう・・全身のほうがね・・あっという間に衰弱しちゃっててね・・・(重篤な状態も)あり得るんで・・・それはまぁ、今の私の話は、(ここだけの)話だけに・・ちょっとね・・留めておいてください。特に・・具体的に、どうこうって、今のところは、そういうことでは全くないので・・。」

私 「 はい。わかりました 」

担当医 「 まずは、今のところは、抗ガン剤と痛み止め。一応、二本立てで、やっていきますのでね・・。」

私 「 はい 」

担当医 「 ご長男さんの方からは、何か(質問は)ないですかね?」

私 「 ・・・う~~ん・・・・・(弟にむかって)あるか?」

弟 「 ・・・実際CT撮って・・じゃないですか。もうどのくらい経過してるんですか?・・実際・・」

担当医 「 いつから始まったか・・う~~ん・・それは何とも言えないですね・・・・」

弟 「 ( CT画像 )見た感じで、どうです?」

担当医 「 う~~ん・・・それは半年とか1年ぐらいは経過してるんじゃないかと思うんですよ・・・」

弟 「 ・・もう大体、それくらい(の経過時間)なんですか・・・」

担当医 「 正直・・・でもねぇ・・わからないです。つまりその・・手術が・・出来るレベルで発見されることが極めて・・・・まぁ・・あの・・発見されずらい病気なんですよね・・元来、胆管癌っていう病気が・・・なので、血液の異常にも引っかかりにくいですし・・超音波とかを・・やるね・・検診とかでやる場合もあるけども、通常我々のなかでも、B型肝炎とかC型肝炎とかを持っている人がね・・あの・・・外来に来ればね・・その・・超音波をマメにやりますけども・・・あとは、そんなにやんないですからね・・やっぱりだから・その・・非常に、我々のなかでも・・やっぱその・・まぁ・・早期発見がしづらい・・・治療もしづらい・・凄く厄介でね・・あの・・・厄介な病気っていう認識がありますね。」

弟 「 じゃあ・・普通の健康診断ではまず発見できない・・」

担当医 「 進行してしまって見つかることが多いです。やっぱ症状を訴えて・・病院にかかられて・・まぁその時にはもうかなり進んでしまっていることが・・多いと思いますね。・・・で、肝臓の癌の中でも・・その原発性の肝細胞癌っていうのは・・普通の方の肝癌ね・・普通の方の肝癌と比べてやっぱこの全身に転移をきたす率が高いと言われてます。・・・だからリンパとか骨とかね・・骨は、肝癌でのね、原発性の普通の肝癌・・骨にいくことはあるのだけど・・リンパとかにあまりいかないので・・・ただまぁ・・リンパにいった時点で遠隔転移ってことで・・・第一・第二・第三・第四という癌の進行度と言った場合に・・第四になってしまうんです・・その時点で・・」

弟 「 はぁ・・・」

担当医 「 第四、っていうのはまぁ・・あの・・基本的に、手術が全く出来ない状態ですし・・まぁ・・・第四=(イコール)末期かと言われるとね・・なかなか難しいんですけど・・基本的に、イコールじゃないんだけど・・その末期っていうのは、我々の感覚のなかでは・・あと半年ぐらい・・以内の人のことを・・あの・・末期というね・・言い方をするんで・・・まぁ・・そうであるなら・・さっき3ヶ月とかね・・申し上げたんですが・・その範疇に含まれてしまうわけなんでね・・・・・言葉は・・・響きは悪いけどね・・末期の癌ということになってしまうんです・・・」

弟 「 痛みっていうのは、どういう痛みですかねぇ・・・私も尿管結石やったことがあんですよ・・ああいう感じなんですかね・・」

担当医 「 尿管結石の痛みはやっぱりその・・内圧が高くなって・・その・・引き伸ばされる痛みだと思うんですけども・・・肝臓の中の細胞自体には痛みはないので・・その・・肝臓を包んでる腹膜であったり・・あとその・・肝臓のね・・ボリューム自体がね・・こう・・癌のために肝臓が張ってる状態ですから・・それで・・伸ばされて痛いんじゃないか・・と思うんですね・・」

弟 「 ・・・伸ばされて痛いんだ・・・」

担当医 「 あと・・でもその・・押すと痛いとかっていうのは・・まぁ・・そうなんでしょうね・・そこが・・もうね・・こうね・・普通の人より張り出してきてる状態・・・あとはまぁ骨の痛みですね・・骨も、肩胛骨だけじゃなくて・・骨の芯っていうね・・あの・・核医学の検査をやったところ・・まぁ・・そこだけじゃなくね・・他のね・・あの・・全身の骨にね・・転移してるので・・・それがね・・そこが実は心配なんですね・・そういうところは弱いですから、体重がかかったりすると簡単に折れちゃってね・・」

私・弟 「 はぁ・・・」

担当医 「 ・・う~ん・・・病的な骨折をね・・起こすことがあってね・・そうするとね・・コルセット巻いたりね・・なんなりして、安全にしなきゃいけない・・・ますます・・その・・骨がつくまでは安静にしてなきゃいけないから、ますますその動きにくくなったり・・寝たきりになったり・・そうなってくると・・・ちょっと・・かなり・・・悪い流れに・・・ガタガタっと・・・・・」

私 「 ・・・なるほど・・」

担当医 「 だから・・そのね・・どうしてもその・・骨の転移がね・・酷い場合にね・・放射線をちょっとあてて・・その・・そこの局所的な治療をね・・痛みを取る、とかっていうそういう目的だけども・・やる場合もあるけど・・・それがでも・・全部に及んでる場合にはちょっと・・もう追いつかないことが・・あるので・・」

私 「 そうでしょうね・・全部だからね・・」

担当医 「 ・・・・・・ちょっと・・・ねぇ・・・・・あまりにも・・・ちょっと・・・ねぇ・・・・病気が・・・・・それが・・・・・ちょっとね・・非常に・・・だから・・・・こちらとしても残念ですね・・・・・・・・・・」

弟 「 家に戻ってきたときに、食事は何でも大丈夫なんですか?」

担当医 「 食べれるものであれば、治療上、これは止めてください、っていうものはないですね・・」

弟 「 特に胃がおかしいってわけでもないから・・」

担当医 「 あえて調べてはないですけど・・ただ・・胃の方には病気はね・・CTとかで明らかなものはないですね・・・・はい」

同席した医師 「 ただ・・あの・・治療始まってからとくに・・あの・・食事も・・ほとんど召し上がっていらっしゃらない状況なんで・・まぁ・・お家に帰った時はね・・あの・・食べたいもので、いいかと思います。」

弟 「 はい。なるほど・・」

担当医 「・・・実はね・・ちょっと・・ステロイドっていうお薬を・・・まぁね・・今・・・少し元気になったり、食欲がわいたり・・・っていうね・・それは癌の末期の人にしか使わないですけどね・・そういう使い方をね・・・あの・・治療というより・・少しでも食事が摂れるようにって、ことで・・実はお薬も、飲み薬を出してるんだけども・・ちょっとまだね・・あの・・それで我々も・・ちょっと劇的に食べられるようになるとまでは期待はしてないんだけども・・まだちょっとね・・あの・・お薬の効果が出てないです・・・」

私 「 あぁ・・そうですか・・。・・・・・・・・・・・・えっと・・・だから、とりあえずっていうか・・入院はどのくらいまで?・・」

担当医 「 ・・・う~ん・・あと・・・2回注射して・・・3回目のお休みですから・・その頃が・・あの・・副作用が出るピークなので・・その週を診てですね・・その週の体調・・・」

私 「 毎週・・・週に1回、抗ガン剤なんですか?」

同席した医師 「 2週連続で打って、・・で・・そのあと1回休みになります。」

担当医 「 その3週間が一つの単位・・・セットになってる・・・・・2回やって1回休み、2回やって1回休み・・・・・ほんとはね・・ほんとは・・3回やって1回休みっていうのが・・あの・・通常のやり方なんですけども・・そうすると・・高齢の方とかだと、3回やったときに・・その・・4回目の休みの時に凄い強い副作用が出ることがあるので・・・1回ぬかして・・・やってます・・・」

私 「・・だから・・・えぇ・・まぁ・・来月くらいになんのかな?・・」

弟 「 今週(10月24日 火 )から(抗ガン剤治療を)スタートしたわけですよね?」

担当医 「 今週から・・・・で、11月の第2週が休みの週ですので、副作用をみながら週末ぐらいに・・・。週末退院して、また火曜日来なきゃいけない・・・まぁ・・でも・・あとは・・おいおい・・あの・・週1回来るのを・・いいペースメーカーにしてもらって・・・って、いうふうに考えているんですけどね・・」

私 「 わかりました。・・・まぁ・・しょうがない・・ですよね・・あとは経過をみるしかないですよね・・・」

担当医 「・・はい・・」

同席した医師 「 また何かご質問とかございましたら・・・・言っていただければお応えいたします」

私達 「 どうもありがとうございました」

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余命宣告 前編 2006年10月26日(木)

今回は前回のナースステーションの中での説明ではなく、カンファレンスルームと表示されてる部屋の中で説明を受けました。医師3名、私、弟、妹、そして後から看護師1人が加わりました。

医師はとても穏やかに話し始めました。そして、私もその口調から、これはもう残り少ない余命宣告の話だと直感して、和やかにその説明に応対しました。よくTVドラマなどで、患者の家族が不治の病の宣告に、感情を荒げて、医師にその矛先を向ける場面がありますが、それとは全く違います。言われたことをそのまま全て受け入れる感じで、この余命宣告を聞いていました。なぜなら母が一番望んでいたのは、不治の病の場合には延命措置はしないでください、ということだったからです。

以下はその時の録音記録を書き起こしたものです。

担当医 「 ・・・ご本人がいるとね・・・どうしても具体的にね・・・その厳しいお話とか・・・も、なかなか出来ないのでね・・・まぁ・・こないだは病気に関する告知・・病名の告知・・をさせてもらってたんですけど・・・実際には病気がどれほど進行していてね・・・まぁ状態がどれほどよくないかっていうことを・・・まぁ、ご本人が希望すれば、ご本人には言うんだけども・・・ご本人はね・・これからね治療に向けて「よし、やるぞ!」って思っている段階でね・・・ここで、その・・・気持ちが折れてしまうかもしれないのでね・・・ご本人には、厳しいことは今は言うべきではないと考えているので・・・まずお家の方に・・・あの・・・真実をね・・・お話ししなければならないと考えて・・・今日お越しを頂いたわけです・・・はい・・」

私  「 はい 」

同席した医師 「 ・・・で、まぁ・・あの・・先日お話したとおり、まぁ肝臓に・・まぁ・・こう・・転移して・・たくさん腫瘍があって・・・肺にもあって・・・」

私 「 肺にもあったんですか?」

同席した医師 「うん。あります。それは(前に)お話してあります・・・で、骨にもあって・・あとリンパ節も腫れてる・・・でぇ・・・我々としてもね・・・肝臓の・・肝臓癌の一種の・・・えぇ・・胆管のね・・胆管細胞癌というね・・ものだろうと考えているんですけども・・」

私 「 はい 」

同席した医師 「 それで、有明の方に行っていただいて・・・えぇ・・そちらの先生のセカンドオピニオンってことでって、行っていただいて・・・そちらの先生も・・・(胆管細胞癌で)間違いないだろうと・・・」

私 「 (癌研有明病院の先生も)そうおっしゃってましたね・・・」

同席した医師 「 で、治療をジェムザールっていうね・・抗ガン剤の治療を週一回、点滴で始めて・・・もう・・・それが今の現状なんですけど・・」

私 「 はい 」

同席した医師 「ただ・・その・・・いろんな所に転移しているような状況で・・・まして、もともとの癌はかなり大きい癌・・・ですし・・・」

私 「 はい 」

同席した医師 「 ・・・ということを考えるとですね・・・治療したとしても・・・今してますけども・・・えぇ・・・まぁ数ヶ月・・・あの・・・」

私 「 死んじゃうってことですね・・・」

同席した医師 「 ・・お亡くなりになる可能性が高いということですね。」

私 「 はい はい」

同席した医師 「 で、ちょっと・・こないだはこういった話をね・・・まぁ、病名をご本人にお話しして、急に・・・そういう・・あと数ヶ月ってことは・・・まぁ言えませんので・・・ましてね、先ほど(担当医から)お話があったように治療に向かってね・・・頑張ろうとしていらっしゃる時なので・・・まぁ、そういったことで・・まずご家族にそういった状況なんだといことを・・・・」

私 「 はいはい。わかりました」

同席した医師 「 ご理解頂こうと・・・と、いうことなんです」

私 「 ・・・・・まぁ・・あの・・・こういうこと言っちゃなんですけど・・・あの・・・母親が死ぬことに対して特別の不安はないですよ。・・なんか変な言い方になりますけど・・。あの・・・結局・・・っていうか・・あの・・・もう母親はそういう・・なんか・・身体が悪いっていう時点で、もう母親が・・もうある程度歳ですし・・・またその・・3年のうちに母親の兄妹が相次いで亡くなっていますのでね・・・そういうのもありますから・・・何て言うんですかね・・・あえて、覚悟っていうんですかね・・・それは当然、本人も出来てますし・・もう一番最初の時点で・・もう、あぁこれは癌だなぁ・・と自分で何か言ってますから・・もしもそうなったら・・・いろいろ、これやって・・あれやってって・・段取りを自分でふんでますからね・・えぇ・・。そう言う意味では・・・あの・・本人もなんかそう言う意味では慌ててるも何もないし、我々も別に・・これといったことはないですよ。」

同席した医師 「 うん うん 」

私 「 あの・・・おそらくそうじゃないかな~・・って気がしてましたから・・。あの・・例えば・・で、癌って聞いた時点で・・あの・・・・こういうこと言っちゃなんですけど・・癌って比較的・・あの・・死ぬまで・・時間が・・・穏やかな時間が多少確保できるじゃないですか。他の・・心臓とかみたいな・・・。父親は心臓で直ぐ一瞬で死んでしまったのでね・・あれで私も・・・何人も友人を癌で亡くしてますけども、まだいくらか穏やかな時間が過ごせる・・時間があるのでね・・・まだ、そういう点ではよかったかなと思ってるぐらいなんですよ。だから・・こういう・・変な話ですけど・・「えっ・・ガンなの?!!」みたいな、慌てることはもうないですから・・」

同席した医師 「 ええ・・」

担当医 「・・ただね・・その・・まぁ・・癌の進行度のね・・話なんですけど・・・」

私 「 はい 」

担当医 「 あの・・穏やかな・・もちろんね、その・・急性心筋梗塞や脳出血という病気と比べられてね・・・癌であればね・・我々もそれは同じ認識はもっています。癌だとね・・家族が悲観的になるけども、ある意味ね・・急に亡くなるっていう病気と比べると、っていう言い方もすることもあるけども・・・。」

私 「 はい 」

担当医 「 実際のところ、ご飯が食べれて、痛みもなく、あの・・外来で診れるっていう時期がどれだけ続くかは、正直、我々もわからない。」

私 「 そうですね・・はい 」

担当医 「 で、既に・・・あの・・ここの、みぞおちの・・あの・・もう5cm以上のね、大きな塊が・・そこが原発。肝臓の中の腫瘤ね・・腫瘍そのものなんですけど・・それがもう・・ね・・お腹に張り出して、触ると固い・・ね・・張り出して触れるんですけども・・そこが凄く痛みをおびててね・・あの・・・モルヒネの製剤を使ってるんです。・・・モルヒネの製剤を・・あの・・開始して・・でぇ・それから、あと・・右の肩胛骨のところがね・・「痛い!痛い!」ってね、おっしゃってて・・・実はそれは骨転移の・・・転移の痛みであろうと・・。で、それはまぁ・・お薬をね・・麻薬じゃないお薬をね・・使うことで、あの・・・コントロールは可能なんだけども・・その・・今後は・・だから・・痛みとの闘いというか・・まぁ、我慢しないでください、とできるだけね・・痛みをゼロに近づけるように努力をするとこちらでは言ってるんだけれど・・・あの・・・・・・基本的にそれが・・あの・・抗ガン剤の効果がね・・・仮にね・・効いてきたとしても・・それは、やっぱりその・・1ヶ月とかね、2ヶ月とか・・要はそのね・・何回か繰り返しやって、はじめてね、効いてくるかっていうものなんです。その間に癌の・・癌の大きさ自体が大きくなったり、転移の数が増えてくれば、どんどんどんどん症状のほうが先行していきますので・・。」

私 「 はい 」

担当医 「 で、現に食欲もかなり落ちてきていて・・あの・・・そのうち・・その痛み止めすら飲めなくなってしまう状況が・・あの・・・充分に考えられる・・。そういう場合は飲み薬で結局ね・・痛み止めで、コントロール出来ない場合は・・こういう小さな・・あの・・パッチといういうね・・貼るタイプの痛み止めとかを使ったりするんだけども・・あの・・・口から結局食事が充分にが摂れないと・・まぁ・・それは入院になってしまう・・。で・・あの・・・ですので・・その・・本人にはなんとなく、まぁね・・言って、僕の口からも言っていて・・外来で出来る抗ガン剤の点滴をね・・選んだのだから・・その・・・1回目の治療が終わったところでね・・・あとは、まぁ外来でやりましょう、っていうふうに言ったんです。それは・・まぁ・・その・・僕の言っている言葉の裏は、結局ご本人には言ってないけども再入院になってしまう時期が、早かれ遅かれね・・くる可能性がある・・。まぁ、それは口から食事が摂れない、痛み止めも飲めないっていう状況もあるし、あと、痛みのコントロールが全然効かなくなる・・っていうね・・可能性もあり得る・・わけね。」

私 「 はい 」

担当医 「 で・・・基本的に・・言うとね・・痛み止め・・ね。モルヒネって・・これくらいの量を使いましょうって基準はないので、つまり効かなければ増やすべきなので、最大限いつまでも増やしていけるんですけども・・それと必ず引き替えに・・便秘とか・・ね・・あとは眠りがちになるとかね・・そういう・・その・・副作用が必ずついて回る。現にもともと便秘もお持ちで食事も摂れてないってところに、更に、モルヒネを使ったってことで・・あの・・ダブルパンチで全然便が出てないですね。今だから便秘のお薬も使って様子みたりしてるんだけども・・・」

私 「 はい 」

担当医 「 あの・・・・今の状態がいつまで・・私も・・ね・・保てるか・・つまり痛みも・・今日はさっき、ちょっとお会いしたらね・・「今日は痛みが・・骨の痛みが消えました」って・・凄い顔色も良くね・・お話をして頂いたんだけども・・・逆に言うと、この時期をね・・あの・・・こういう時期を・・まぁ今抗ガン剤を始めたばっかだからね・・最低これから2週間は副作用が出るから居て頂かないといけない・・それは、こちらからのお願いだけれども・・それが済んだらね・・もう・・・この時期がもうほんと貴重だと思うんです。」

私 「 そうですね 」

担当医 「 うん。あれほど頭もね・・しっかりされてて、痛みさえとれたら、もうなんなく生活出来ると思うんで・・そういう時間をね・・・要は入院での1ヶ月とね・・家での1ヶ月では全然密度も、なんにも違うんで・・僕は積極的にね・・入院してたとしても・・もう外出・外泊をね・・・どんどんしてもらおうと思うし・・・あの・・・お家の方には・・でも・・この今の状況以降・・うん・・あの・・・少し経ったらどんどん悪くなっていく恐れが高いということがね・・・予め言っておかなければいけない。で、治療の主眼は・・治療のその目標はガンをコントロールすることに勿論ありますけども・・基本的に、その・・我々が扱ってる肝臓の癌とか・・ね・・あの・・いろいろな癌がありますね・・胃ガンとかね・・大腸癌とか・・その中でも、特に膵臓の癌とか・・・今回ね・・なられた・・その・・胆道癌っていうのは手術オンリーなんですよ・・・言葉が悪いんですけども・・」

私 「 なるほど 」

担当医 「 手術が出来ない状態で見つかることが極めて多いんですけど・・手術が出来ない場合に抗ガン剤が・・ね・・効いて小さくなって・・手術の状態までもっていけるのが極めて稀で・・あの・・期待できるのが・・せいぜい・・現状維持とか・・進行をゆっくりにすること・・ぐらいなんです」

私 「 はい 」

担当医 「 ・・・で、そこまでのことは本人にはとても・・ね・・・・あの・・・言えない・・・ですしね・・・まぁ・・あの・・本人が凄くね・・強く知りたいっていう方の場合はね・・あの・・データをお示ししてね・・あの・・癌のときにあがる血液の検査がね・・横這いだとか、増えてますとかね・・言って説明することがあるけども・・・基本的ににその・・抗ガン剤っていうとね・・・その・・すごくその・・何て言うんでしょうね・・・やっぱり・・・もう・・魔法のようにね・・・なかにはね・・・患者さんとか・・患者さんのご家族のなかにはね・・・魔法のようにすごく特効薬でね・・もう・・形勢逆転できてね・・・思われる方がいらっしゃるの・・・・・それは・・まぁ癌によってはそうです・・ね・・なかには凄く効く癌もあるけども・・・我々が特に・・あの・・手術が出来ない場合に・・抗ガン剤を選ぶんだけども・・・特に膵臓の癌とか胆道癌とかは抗ガン剤が効くっていうふうに考えられてないのね・・・・・で、こないだ・・そのお話ししたジェムザールっていうお薬は・・その胆道癌、今までどのお薬を使うか・・・どのお薬も・・その・・どれが効くかってわかってなかった・・・それがまぁ・・あの・・今回その・・二十何年ぶりにね・・・その・・胆道癌に効くといわれてる・・その・・お薬が認可されました・・ということを言ったんだけどもね・・・それは海千山千のねの・・あまり効かないって中でそれがまぁ唯一・・他のよりは効きます・・というその程度の言い方しかできないんです。」

私 「 はい 」

担当医 「 ・・で、あの・・今後・・だからね・・(同席の医師)彼から・・数ヶ月っていう話があったけども・・・早い経過をたどれば3ヶ月・・・ということも充分あり得ると思います。で、まぁ・・抗ガン剤とかが効いたりすれば・・・まぁ・・その・・半年ぐらいね・・・あの・・・いまの元気さの度合いを保ったままの半年ってことはちょっと考えにくいと思います。」

私 「・・・でしょうね・・」

担当医 「 うん。まぁやっぱ、こちらとしては、心配なのは食事が摂れなくなって、痛みのために身体も動かせなくなって・・結局もう・・ベッド上にね・・もう寝たままになってしまう・・・時期が・・あの・・・来てしまうんじゃないか・・。基本的にその・・抗ガン剤の治療っていうのは、歩いて外来に通えるくらい元気な方に行うべきなんです。あの・・四六時中ね・・う~う~唸ってるとか・・もう身体起こしただけでもう・・ね・・顔を歪めてしまうとか・・そういう方には・・もう・・毒性のね・・その強い・・悪い作用しか、かえって、でないことが多いんです。癌をね・・やっつけるっていう効果よりもね・・。なので、あの・・そういう状態になってしまったら抗ガン剤の治療自体を・・止めないといけなくなってしまう・・・・・・ということを予め言っておかないといけないと思うんです。」

私 「 はい。わかりました 」

担当医 「 うん。それまでの間に・・だからね・・・その・・抗ガン剤の治療をね・・2週やって1週休むっていう・・っていうのを何回積み重ねていけるかね・・わからないけど・・あの・・今は痛み無くね・・外来に来れる間は・・・まぁ・・やれる間は続けさせていただく・・・という方針です。」

私 「 宜しくお願いします 」

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病院からの電話  2006年10月23日(月)

10月23日だったか24日だったか・・。私の携帯電話に母が入院している病院から、「ご家族の方だけにお話があります。26日(木)の午後5時ごろに来て戴けますか?」という連絡がありました。

普通、「家族の方だけに話がある」というのは、いい話じゃなくほとんどは病状がかなり悪く、数ヶ月のうちに死亡の可能性が高い場合でしょう。そうでなければ、母親本人も同席で話があるはずです。

前にも書きましたが、母の兄妹はこの4年のあいだに3人が全て癌で死亡しています。胃ガン、膵臓癌、肺ガン。私の友人や知人でも若くしてガンで亡くなった人がいるので、ガンに対する一般的な知識はありました。また、癌研有明病院で「胆管癌」と言われてから、ネットで情報を集めて、この病気がかなり難しい、治癒できないことはわかっていました。そして、以前にあった検査経過の説明の時には、一切、放射線治療や外科手術の説明も無かったことから、母の病状はかなり悪いことが推測できました。

母は先に亡くなった親戚のおじさんやおばさんと同様に数ヶ月後には死亡する。自分でも不思議なくらい冷静に、母の死亡について認識していました。今まで元気に生活していた母が死亡するのはとても残念で悲しいことですが、人として生きている以上、必ず死ぬ。母だけじゃなくて、私自身も死にます、いつか・・・。病気じゃなくても、母はもう70才になろうとしている高齢者です。私は、「その時が来るんだな・・・」と漠然と思っていました。

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